うーむ。
一昨日のケンシンの「鬼の投球」を見て、東京ドームのCS第2ステージのチケット買ってしまった。しかし、買った直後にプレイボールした第2試合でもやしっ子Nが目覚めた虎に食われた。まーいいや。負けたら虎ファンに売りつけます。ほしい人いますか?(わからないところはとばす」の練習用にあえてこういうこと書いてますからね!でも、つまらなくなってもやめないで最後まで読んで!)
しかし、野球を見ているとおもしろいですね。まさにボールが「火の玉」のように見えるときがある。一昨日のケンシンもそうだったし、トラが優勝したときの久保田のボールも「火の玉」だった。ゴォー!
こういうことって、本読んでるときもないっすか?音楽聞いてるときも。
そういうのって、読書の醍醐味ですよねぇ。タドキストの方がたは「英語」なんてちっぽけなものではなく、こういうサムシング・エルスを得ていると私はみなさんの話を聞いて感じるんですよ。そういうサムシング・エルスに比べれば、語数もYLも習得も全部ふっとびますわな。
いやいや「英語」もふっとびますよ。
ふっとばしちゃいましょう。
なんでみんなそんなに「英語ができるように」なりたいんでしょうか。
そんなに英語ができてよかったことなんて私はなかったですよ。スペイン語だって。
それよりも、野球やサッカーやローリング・ストーンズやRCサクセションや釣りの方が、人生豊かにしてくれてますが。
タドキッズには「英語」なんてちんけなものではなく、「サムシング・エルス」をゲットしてほしいですね。
しかし、現状はどうもそうはいかないようですな。思考停止の大人がやたらと「英語」をこどもに押し付けてないですか?
英語子育て
なんて気持ち悪いでしょう。いかんでしょう。もっと大事なもんがあるでしょう。
なんで、「英語」だけそんな特別なのか。
ひめはよーくわかると思うのですが、英語なんて数ある言語の1つでしかない。それが米英帝国の世界征服によって、今や「国際語」になってしまっている現実がある。この現実は本来「絶対あってはならない」ことなのですが、特に日本人はそこに無頓着。EUなんかは公然と「多言語主義」を打ち出しているのに...「日本は一言語、一民族うんぬん」とぬかしたアホはおいとくとして、でも、多くの日本人は「日本人=日本語」「外人=英語」って感覚ではないですか?いまだに。
こんなこってはそれこそ日本は「国際的」なんかになれませんぞ。
しかし英語が国際的に使用されているという「あってはならない現実」に対応せざるをえないのもまた事実。だからここは鈴木孝夫(別にこの人の論に全面賛成というわけではないですよ)の言う「英語は国際補助語」という考え方を、われら英語教育にかかわる人間はもたねばならん、と思うのです。
こういうこと言うと、「やっぱり国語教育が一番大切だ!」というナショナリストに利用されそうですが、私はそんなことも思ってない。ひめが言ってたように「日本語も数ある言語の1つ」としての考え方をこどもにももってもらわんといかん。
日本語を言語として「対象化」するためにも「外国語教育」は必要です。しかし、「外国語=英語」というのは絶対だめです。悲しい現実をうまくいなすためには、「英語」は「外国語」という観念をとりさり、「国際補助語」として文化からニュートラルな存在、たとえばコンピュータのプログラミング言語的な発想をもってないといけないと思います。「外国語」としての英語はあくまで選択肢の1つとして、「大学以降で」その他大勢の言語と同列に「選択科目」として扱えばよい。
と理想論を言っても、それを現実化するのは無理ですので、まず私は、英語教育に係る人間が「英語は単なる言語の1つ」「英語は国際補助語」としっかり認識し、その上で、英語教員は英語以外の外国語を1つ以上(日本語も含む)を必ず「お勉強」する必要がある、と思いますよ。
多読関係の方の話を聞いているときも、「英米文化崇拝」に聞こえてしまうことも多々あります。オックスフォードのORTのプレゼンを聞いた時にも、「ORTを読むとイギリスの文化がよーくわかって、異文化理解にも役立ちます。」なんて言ってた時に、聞いていた児童英語の先生方が「はー!」と感心する様子を見て寒気がしましたよ、本音を言えば。
あとむかつくのが(教師が「むかつく」なんて言わないでって言わないで!)、ネィティブスピーカー信仰。学校でもネイティブの講師の授業時数が多ければ、それだけ英語に力を入れていると思われる。そういうときの「ネイティブ」はいつも英米オーストラリア。(しかし、Chicoさんの潜入レポートを読むと、小学校ではフィリピン人もいるのですね。よしよし。いや、よくない。小学英語自体断固反対!)
「国際補助語」として英語を教えるなら、「ネィティブ」はご法度です。ノンネイティブが教えてこそ、「国際補助語」ですよ。だから、私は公立学校のALTはすべて母国語は英語でないが、「公用語」として、またはその他の理由で、英語を使用せざるをえない国の人にしたい。これはいろんな意味で非常に「教育的」発想だ、と自画自賛しときます。
もっとむかつくのが、英語教員たちのネイティブ信仰。特に発音。「この会社の音読CDはなんでアメリカ英語なの?イギリス英語の方が上品なのに。」とか「アメリカ英語の方が国際的だからやっぱり学校ではアメリカ英語を教えないと。」とか。
アホもいい加減にしてほしい。
インド人やフィリピン人やベトナム人の発音をみならいなさい。
みんな立派に「国際補助語」として英語を使っているではないか。しかし、誰も「僕の英語はクイーンズイングリッシュさ。」なんて言わないだろう。
国際補助語なんだから、通じりゃいいの!
あ、なんかいろいろ思い出してきました。以前、定期テストでリスニング問題を出そうということになり、さぁ大変。「ネイティブ」に録音してもらうための時間を確保しなきゃいけない、あの人はイギリス英語だから、こっちの人のがいい、とかもう人種差別発言も出る。さらに当のネイティブ講師は、「そんなことする分の給料もらってない!」と文句を言い、それでわざわざ契約書まで持ち出して、「ほら、ここにextra activities such as recording of listening test scriptって書いてあるから。」とか言っておる。そんで結局授業1時間分けずって録音だとさ。生徒よりもテスト作成が大事なのか。
あまりにアホらしいので自分が作成担当のときは自分で録音してやったわい。生徒は誰もオレだとは気づかなかったですよ。いや、それくらい自分の発音がうまいと自慢したいわけでなく、別にネイティブ発音信仰じゃなくっても十分英語として「通じる」ってことですよ。いや、「通じなきゃいけない」ってことです。
(あ、そういえば同僚だった「変人」教員は、リスニング問題で「ドイツ人」「スペイン人」「フランス人」とそれから「日本人(自分)」に「日本に来てやってしまった恥ずかしい体験」を英語で語らせて、それをテストにしてました。やはり変人こそまっとう。)
そーいえば、MLでもたびたび出てきた若林教授は、「学習指導要領上は『英語』は、『外国語』の中の1つで、選択科目だ。これを半ば『必修』として行い、入試科目にも課していることはれっきとした違法行為だ!本来は中学校から様々な外国語を用意し生徒に選択させねばいけない!」と言ってました。しかし、その後確か『英語』は必修になったような....
んだから、多読の話をするときにも習得に関しては「英語を習得するためには」ではなくって、「外国語を習得するためには」って言いたいですね、私は。
だからプロフェソールの新刊も「さよなら英語バカ 多読が育てることば力」にしちゃいましょう(笑)
別の本のご紹介です。
『英語教育はなぜ間違うのか』これは、『どうして英語が使えない』とともに英語教育に関わる人は絶対読んでほしい本ですな。
もう一度言いますが、タドキッズたちは「英語」なんかでなく、「サムシング・エルス」をゲットしてくれ!親の期待に反して。
いや、なんか書いてたらいろいろ思い出してなかなか終われない。親の期待ついでに。
英語ができたって就職に有利なんてことないと私は思うのです。以前都教委の「強制研修」で某大手電機会社の「人事部長」の話を聞きました。これが予想に反してなかなかおもしろかったので、最後に、
「最近、PCの技術が必要だ、とか、英語は必要だ、とかいうが、あんたはわれわれ高校教員にどういう風に生徒を育ててほいいのか?」と聞きました。
すると彼は、
「あのね、いろんな意味でたくましくしてやってくださいよ。英語とかPCとか、必要な技術や知識があれば、それはこっちでちゃんと叩き込みますよ。」
というのです。
どこまで本心かは知りませんが(そもそも私はこういう人を信用しないので)、でも、ある意味、「英語ができたってそれだけで採用なんかしませんよ。」と聞こえませんか?
結局、「英検○○級」だけで採用されるような職種は、いらなくなったらポイの世界なんではないでしょうか、と世間知らずの私は思うわけです。
だから、就職に有利とか進学に有利とかそんなことばっか心配しないで、どんな境遇になっても、豊かな人生が送れるような、そういう成長の仕方を見守れるような、そうなりたいですよねぇ、ってよくわからんくなってきましたが。
おとなもたくましくならないかんですね。
ORTだって、「イギリスの文化」なんかじゃなくって、Kipperたちのたくましさに共感し、感動しますよねぇ。そのたくましさに比べりゃイギリス文化も、日本文化もアメリカ文化も、it doesn't matter much to meでしょう。たくましさはボーダーレス。火の玉もボーダーレス。